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8月, 2018の投稿を表示しています

「自己肯定感」「自尊心」は誰が育てるか

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。
塾の非常勤講師もなんだかんだ6年やってきたのですが、なんだかやる前から諦めている子が増えた気がするなあと思います。 もちろん、限られた場所、限られた時間、限られた人数しか見ていないのであまりこういうことを言うべきではないのですが、感覚的には一部のトップクラスの生徒のレベルは上がっている反面、平均レベルの知識や技能が落ちている印象です。

10年や20年で遺伝子レベルから劣化しているということはまず考えられないので、やはり環境やモチベーションの問題かなと思います。


《よく聞く言葉は・・・》
ここ近年生徒と話していてよく聞くのは、「どうせ私は・・・」「所詮僕は・・・」から始まる話です。 失敗して傷つくことがないようにという自己防衛を無意識のうちにやっているのでしょうが、これを言っている限り、成功することはありません。
僕だって少し前は彼らの立場だったので言い分はわかります。 学校では何かにつけて点数を付けられますし、注目を集める人と注目されない人の差も出てきます。 勉強が苦手でもなにか別のところで能力を発揮できればよいのですが、みんなで学校の環境に浸かっているとそれも難しいです。 友達同士では気付きにくいような目立たない子の良いところを親や先生が見つけてくれればいいのですが、その人たちも一緒になって「どうしてできないんだ!」みたいなことを言ってしまったりもします。
特に堪えるのは「比較されること」ですかね。 他人と比較して自分の劣っていることを示されるとダメージが大きいですね。 テストの点数や偏差値は明確な数値データが出るので反論もできないです。 毎日そんな話をしていると自尊心が削られるのもわかります。



《高学歴でも学歴コンプレックス》
名門大学の人でも学歴コンプレックスを持っていることが結構あるんですね。 京大の人でも東大を意識してしまったり、東大の人でも海外の大学を意識してしまったりする場合もあるようです。 自分より勉強ができる人なんて世の中探せばいくらでもいますし、同じ大学の中でも当然学力の差はついていくので、誰もが何かしらのコンプレックスは持っているのかもしれません。


《塾でよく言うこと》
塾は資本主義経済の一部なので、学校的な美辞麗句はあまり使いたくありません。
信じる者は救われるとか言いません。 努力は報われるとも人…

オリジナリティを創り出せ!教養学習と新奇性の関係は

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。
この間、行政職員の方に 「もっと新しいシステムを考えてほしい」 と言われたので、しばらく考えてから改めて 「例えばこういうのとか・・・」 と提案したところ、
「前例が無いからなかなか難しい」
と言われてしまいました・・・・
いや、そりゃそうでしょ! 僕が考えた事なんだから前例がある方がおかしいでしょ! 前例通りにやったら行財政改革になってないよ!!!!!
とまあ、こんなことがありました笑
※ご本人にもそういったのでこのブログの存在がバレても問題ありません





《”前例通り”の罠》
もちろんあの人たちも、「新しいことをやろうとしたら前例はない」という事ぐらいわかっています。 わかったうえで、逃げ腰になっているんですね。
行政の場合は先に予算を組みますから、計画段階から「予算が取れる」という事を前提に考えなければなりません。
そして、例年通り、前例通りの事業であればその辺りの交渉は比較的容易なのですが、全く新しいこととなると、どれくらいのスケール感で進めていけばいいのかがわからないのです。 結果として予算審理は難航し、実施に踏み切れないということです。
また、やったことがないことなので、どれくらいの成果が出るのかもよくわからない状態です。 もし失敗したとき、誰がどうやって責任を取るのかということが非常に難しい問題です。 立案者も、実施者も、財政課も、ゴーサインを出す偉い人も、その責任を取りたくないのです。 だから新事業というのはなかなか実施されないのですね。






《それでも世界は回り続ける》
そうはいっても、世の中は待ってくれません。 激動の世の中で子供たちに何を伝えるか? でも言及しているように、世の中はとんでもないペースで変化しているのです。
誰が昇進するとか部署内での政治力学よりももっと重大な問題がすぐそこにあるのです。
これだけ雇用が流動化して、国境も無くなってきて、人も財も自由に行き交っているこの時代においては、
現状維持をするというリスク
新しいことをやらないというリスク
が存在します。 攻め続けないと負けてしまうのです。 そこに関しては民間も公共も同じです。





《オリジナリティを持っているのか》
農業社会、工業社会の時代は息を潜め、情報が大きな価値を持つようになりました。 食料自給率の低下だとか工業の衰退だなんだと言っても、なんだかん…

アクティブラーニング?知識も無いのに議論するの?

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。

学校教育の在り方が見直されつつあるようですね。
確かに従来通りの集団授業形式はもう限界が来ていると思います。
参考:教育は変われないのか~集団授業はもはや成立しない~


ここ近年、アクティブラーニングだとか、PBL(project based learning)だとか、色々なことをやっていますね。 机上の空論だけでなくて、実際の課題をベースに議論をすることが大切だということです。
他人と会話しつつ学習したり、その中でコミュニケーション能力を付けたり、受動的に授業を聞くのではなくて自分で考えたり、ということは確かに大切だと思います。 今までの教育というのは知識の伝達に重きが置かれていましたから、「知識バカ」みたいになってしまったり、無気力状態になってしまったりする例がいくつもあります。
そういう意味では教育改革は絶対にやるべきなんですが。 ですが・・・




《基礎知識も無いのに何を議論するの?》
特に義務教育においてはそうなのですが、子供たちはビックリするほど何も知りません。 例えば環境問題について議論するにしても、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスの削減についてが話題になっているということさえ知りません。
オゾン層も知らない、酸性雨も知らない、そもそも硫黄化合物や窒素化合物もしらない、っていうかなんなら化合物って何?という状態です。 それも下位層の話ではなくて、普通に5段階の3とか4とかの子の話です。
そんなんでまともに議論が成り立つ訳がないでしょう。
思考力、実践力が大切なのは重々承知ですが、その前に知識が必要だと僕は思いますね。 参考:知識は無駄にならない!安直な「反・詰め込み」も問題





《感情論に陥る恐れ》
知識の無い状態で議論をすると、感情論になりがちです。 「僕はこう思う」 と言えることももちろん大切ですが、具体的な解決を求められている場面ではそうはいかないのです。 あくまで客観的な事実を示したうえで、その結果に対して「僕はこう思う」と言えなければならないのです。
客観的・科学的なデータや理論を持っていないのにどう思ったかを話し合ったところでそれは議論とはいいません。 コミュニケーションの練習くらいにはなるかもしれませんが、科学リテラシーの向上といった学習効果は期待できないのです。








《声が大きかったら勝ち?》
基礎理論が入っていな…

学校に行くことは制度に逆らわないことだ

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。

今まで色んな所で散々教育制度の矛盾を指摘してきました。 有体にいえば「クソだ!!」と言ってきました。
でも、どうやら僕が間違っていたようです。
僕が気付いた重大な事実、それは、
「多くの人間がそのクソを求めている」
ということです。
この間大学で話した子が、 「勉強したいとか楽しいとか思ったことは一度もないけど大学は楽しい!友達にも会えるしサークルも楽しいし、授業中だけ我慢してれば卒業して就職できるし!」 と言っていまして、僕には目から鱗でした。
そういう考え方もあるのか!と思うと同時に彼女のような人がマジョリティーなんだということを理解しました。
そうか、僕は大変な思い違いをしていた・・・


新しい知識の獲得、そして創造。 それが教育の本旨だとすれば、今の日本の教育界は最低レベルまで堕ちているという意見は正しいように思います。 僕はずっとそう思っていました。

でもそうじゃない。 教育、特に日本の学校制度の本旨は「波風立てずに制度に当てはまる人間を育てること」 非合理や非効率には気付かない、或いは気付いても何もせずに幻想を壊さないことが大切なんです。 そして多くの学生が知ってか知らずか進んでその役割を引き受ける。

醒めない夢は現実と同じということです。
非合理や非効率を指摘せずに皆で慣れ合う、そうして大きな混乱を回避している、それが現状だと思います。
それも政府が意図的にそうしようと試行錯誤しているのではなくて、皆が無意識のうちにそれを望んでいる。 だから変わらない。

歴史的に見てもそうですね。 束縛されると自由を求めるのですが、いざ自由になってみると何をしたらいいのかわからなくなります。 人々は誰かに従いたくなる。
従うのが「独裁者」から「世の中の常識」に変わっただけの事です。
意思決定を、それに伴う責任を、避けたいと思うのはある種自然な感情です。

でも、それでも僕は、このままじゃダメだって思ってしまうんです。 なにか少しでも変えていかないと、少しでも行動しないと、というように。 ルールがおかしいならルールを変えなければ、と。 そういうところが思春期おじさんなんでしょうけど。 でもそれが僕なんです。

ただ問題があるとすれば、「みんな一緒な感じでぬくぬくとやっていきたい」と思う人の自由を僕が侵害する権利は無い、ということですか…

知識は無駄にならない!発想力を生み出すための教養学習

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。
教育政策の歴史を辿っていくと、やれ頑張れと言ったり、詰め込みはダメだゆとりが大事だ、ゆとりは失敗だ学力低下だ、と右往左往しています。
2020年の入試改革においても、知識偏重を改めて発想力や表現力を測る記述形式になるのだとか。
それ自体は素晴らしい取り組みですし、ドンドン良い入試問題を考えていけばいいと思うのですが、それによって「詰め込みはダメだ」「これからは知識は必要ない」と考えてしまうのは大いに問題だと思います。
詰め込みがダメなのは、訳も分からず詰め込むのがダメなのであって、理解してインプットした知識であれば多いほど良いです。

「最近は何でも検索したら出てくるから知識なんていらない」という極端な人もいますが、僕はそうは思いません。 やはり自分で苦労して知識を身に付けるという経験は大切ですし、スマホを取り出して取り出して検索しているより事前に知っている方がスピーディーでもあります。 いつでもネットワーク環境があるとも限らないですし、スマホが故障する可能性もあります。
ある程度は知識を入れておくのが得策でしょう。




《あのツイートは》
頭の良い人と悪い人のものの見方の違いというのが一時話題になりました。


これができたら頭がいい、できない奴は頭が悪いという単純なものではないと思いますが、一側面は捉えていると思います。
連想の速さももちろんですが、連想するには事前に知識を持っていることが絶対条件です。 そもそも万有引力の法則の逸話を知らなければリンゴと万有引力が結びつくこともない訳です。 その場で調べていたのでは間に合いません。
知識を持っているのが前提で、更に臨機応変に引き出すことができるから「この人は頭がいい」と思われるのです。





《分析能力に差がつく》
例えば旅行に行ったとして、そこで見る建物や風景に対して何を思うでしょうか。
「すごい」「綺麗」「迫力」 といった感想で終わる人が多い一方で、様々な分析を試みる人もいます。
地理や歴史に詳しい人であれば、何時代にこんなことがあってそれからこの地域ではこんな産業が盛んで・・・とか 建築に詳しい人であれば、この建物は○○方式で・・・とか 経済学や経営学をやっている人であれば、この産業の付加価値は、流通経路は、減価償却は・・・とか そういった事を考え始めるのです。
そんな旅行楽しいん…